邪悪も運のうち
近頃、マンガワンの話題、イランの話題などに食らってしまって、邪悪について考えている。
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」というタイトルの本がそれなりに広く読まれ、2010年代ぐらいまでとても根強かった自己責任的な考え方へのカウンターっぽく(今書いてて思ったが、日本においては東日本大震災は一つの契機だったか?)、昨今では、能力はある程度遺伝や生育環境で決定づけられる部分が大きいのだから、厳しい境遇にある人に対して、それを当人の自由選択の帰結と捉えるのは科学的には正しくないわけで、みんなでなんとかしないとですよね的な空気が盛り返しているように思う。わかりやすく言えば、バカや貧乏は本人には何の責任もなくて、そうなりたくなくてもそうならざるを得なかったわけだから、みんなで助け合いましょうや、という考え方が徐々に広まっているように思う。俺もある面ではバカや貧乏であり、一方では恵まれている部分もあって何かの助けになりたいとも思っているので、そういった考え方が広まることは非常に歓迎である。
ときに、能力を善悪に置き換えて考えてみても、同様な考え方は成り立つのではないか。カッコウの托卵などを考えれば自明だが、他者を騙したり、攻撃し害することによってなんらかの利益を得る行動に関する遺伝子は存在する。その多寡は人それぞれだろうし、生育環境も大きく作用して、「邪悪にならざるを得ない」人がいることは想像に難くない。「実力も運のうち」と同様に、「邪悪も運のうち」である。俺がある程度、かろうじて善を保てている(自認)のはただ運が良かっただけだ。そういうことを考えると、難しくなってくる。道を歩いていて、犬の糞が丸々放置されているときなど、「この犬の飼い主が病気や事故で死んだ方が世の中少しはマシになる🤬」「死ね」「てか死ねよ」、みたいなことを俺は平気で祈るが、これはつまり、「たまたま邪悪になってしまった人間は死ね」ということで、あまりにも理不尽な考えであることがわかる。善悪も価値観の多数決に過ぎないっていうのもあるわけだし、なんだろう、邪悪に対して、歩み寄るような、「善い人も悪い人もみんなで助け合いましょうや」っていうのはどういうことなんだろう、っていう。今は、悪いことは罪であり、悪い人は施設にぶち込んで善い人に変えていくべきで、これは「更生」と呼ばれている。あまりにも善い人側の論理で、ある意味においては暴力的に感じなくもない。もちろん、悪い人、邪悪に対して、許すとか、そういう気持ちもなく、犬の糞を放置する人は死ねという気持ちは常にある。結論はなくて、ただ、難しいですね、人間、一筋縄ではいかないな、という感じである(小並感)。トランプ、マンガワン。