言語化能力というものがもてはやされすぎている、というのは昨今いろんな人が言っている気がするが、手話の講習会に行くとたまに考える。言語化っていうのは、ポップミュージックであると。 ポップミュージックは、4拍で1小節、それを4小節がセットにして決められたBPMですわりよく繰り返す。音階というかピッチは12種類しか使われず、これは西洋では昔から人間に耳障りが良い音が12種類とされているから。本来は4拍の次にBPMを無視して軽く1秒ぐらい、一息ついてから次の音を鳴らしたり、ミとファの間に黒鍵はないが、その中間の音を適当に探して鳴らすとか、していいのに、そういうことをしたら心地よくないとされている。そうやって心地よいパターンに落とし込まれた後に、さらに人間には聞こえないとされている周波数をカットして、人間にはそれで十分とされている秒間サンプリング回数でデータ化され、小回りの聞くデータサイズになって便利。これがポップミュージック。本来はもっと、音を鳴らすこと自体は自由で、黒板を引っ掻いたりして演奏しても良さそうだが、そういうことをすると現代音楽とかパフォーマンスとかになりそう。 言語化は、世界、感情、そういうもののどこをどう切り取ってどう並べるかっていうのは本来は自由なんだが、いい感じのリズムや、句読点の間隔、世の中の常識的な感覚と合っている言葉遣い、雰囲気、マナー、そういう、BPMとか小節と対になるものがある。そのパターンの上で、さらに、国語辞典にのっている、みんなが知っていて意味のある言葉しか使えないとされていて、これはポップミュージックにおける音階と対になる。さらに、フォヌカポウとか亜qw瀬drftgyふじことかなんでもいいけど、世界や感情のほとんどのことは人間にとって意味のある言葉にならないのでカットされてしまって、これはポップミュージックにおけるデータ化の対になる。 BPMと小節と文章マナーに沿うためには、諦めや詰め込むうまさが必要。「このフレーズをどうしても入れたい!」みたいな気持ちと折り合いがつけられないとうまくいかない。音階と単語の数が限られていることは、選択の適切さが求められているということ、まあこれはあんまり、いいや。データ化、言葉化の本質は、いかに意味のないとされている要素をたくさん捨てるかということである。 言語化能力がもてはやされ過ぎてるっていうのは、捨てたり諦めたりして、要領よく詰め込めることがそんなにいいのか?本当にそれは捨てたり諦めたりしていいのかっていう感じのうっすらとした危惧である、自分の場合は。それ捨てんなよ、みたいな。「ねえ、俺の大事なあれどこやったの」「え?あれゴミだと思って捨てちゃった、あんたあんなの大事にしてたのワラ」みたいな。そういうやな感じのオカンみたいなやつが、現代の「言語化の上手な人」なんじゃないかっていう、反発心みたいな。